「世代」は、心地よい。
綿密な言語化も、必死の具現化も必要とせず、生まれた時期に依り偶然にも同じ時間軸を共有していたという事だけで、火傷もしない、風邪もひかない、程よい湯加減に浸る事ができる。
「一般的な社会」の中で育った限り、「人格」と「世代」は不可分のものでもあり、同時に世代論の中に埋没する事は、シニシズムと共に眼前の状況を漫然と消費するだけの体たらくにも陥りかねない。
いま自分は、四方に鏡を置かれたガマガエルのごとく、脂汗をかいています。
その原因は、本日配信されたライジング中の次の一節。
ゴー宣DOJO関係で出会った方は、近い世代が多く、その中でもゴー宣に心を揺さぶられる感性を持った人なので、当然ながら意気投合いやすく「心地良い」んです。
その一方、ゴー宣DOJOが「世代の文化」に留まるとしたら、我々はどこまでも「消費者」になってしまう。
もちろん、作品そのものではなくても、芯となるエートスの部分を「それぞれの現場」に展開するのも「本質」の一つです。何なら、社会人になって32年間(ほぼ、ゴー宣読者である期間と一致)、全てにおいて心の中にそうした意識がありました。
だけど、それでも、自分たち読者が「世代の文化」としての消費に留めてしまうのは、あまりに心苦しい。
「ロスジェネ」という(被害者という立場に固定された)憐れみの表現は好きではありませんが、漫然としているだけでは「喪失」の穴を自ら掘り深めているのと同じです。
この一節を読めば読むほど、「世代」ど真ん中である自分の心が「不安で揺れ動いて」いるのを感じずにはいられません。
それは、「己の命を問われる」という意味で、まるで喉元に匕首をつきつけられているのと同じような緊張感が発生している故なのかもしれません。
この緊張感こそが「バランス感覚」の源泉にも他ならないでしょうし、(生物学的な意味に留まらない、精神的な意味を多く含んだ)「死」と対になった「生」を紡いで行く事そのものにもダイレクトにつながるのでしょう。
などと、やたらとシリアスな事を書いてしまったので、酒でも飲んで適度に堕落しながら眠ろうと思います。おやすみなさい。